サービス提供の動機
皆様こんにちは、こんばんは。行政書士事務所Link-Upの村野です。
最近映画をものすごい勢いで見ておりますがですが、本も何冊か並行して少しずつですが読み進めるようにしています。
寝間着姿でソファーに寝そべってBOOKLIVE!で購入した「中間管理職トネガワ」をよんでブラックな笑みを浮かべてばかりでは、かわいい2人の子供に示しが付かないので、年齢問わず人生の諸先輩方に様々なご指導をいただく場に足を運んだり、さらに広い意見を聞いて取り入れるために、本を読んで子供がもう少し大きくなったときにステップアップの際の踏み台にしてもらえる親の背中をサグラダ・ファミリア並みのペースで作っております。
さて、学校の授業で「道徳」の時間があったかと思いますが、近年では授業として確立しているそうです。(その情報も古くてすみません。。。)
そもそも「道徳」を勉強する理由は、当時は子供は生まれたときから大人と同じように労働し生活していたため、大人は大きな子供、子供は小さな大人といった感じで区別がなかったみたいです。それが西洋文化が入り、産業革命、技術革命と進んでいく過程で、大人と子供という役割の区別がはっきりし、子供が大人になるためには教育をしなければいけないということで学校教育が始まり、「道徳」はその教育課程の中で学んでいくことになったみたいです。
こういったように今の世の中西洋的な文化思想が日本の中に取り入れられたことでいい反面、日本がここまで来るにあたって大事にしてきた「道徳」とは何かを取り戻さなければいけないという人もいます。
そんな「道徳」を知るにあたって、
私のようなものでも聞いたことがある人物カントが提唱するものとして『道徳それじたいが「目的」であり、快楽のための手段ではない』という言葉があります。
そのカントが持つ概念として『仮言命法』と『断言命法』があります。
これだけだと理解不能なのですが、商売という形で置き換えるとわかりやすいです。
例えばリンゴを売る商売を始めるときに、このリンゴをたくさん売る手段として、「正直に産地を表示しなければ消費者の方の信用を失いリンゴが売れなくなる」というのが『仮言命法』です。
「商売でうまくいきたければ正直であるべき」といいますが、この考え方は裏を返すと、リンゴが売れないなら正直に伝える必要がない、リンゴを売るつもりがないなら正直である必要がないといった考え方も存在します。(もちろんその言葉のすべてがそういったことを考えていっているというように言っているわけではないです。)
よってリンゴを売る目的という前提がある時点で正直に伝えるいう行為が「道徳」とは関係がないということになります。
カントが言う「道徳」は『断言命法』はリンゴ売る云々じゃなく、正直は善だから、正直に言うといったように正直に言うことを目的にする。
難しいですね。
これがサービス提供をするにあたってどうつながるのかというとあまり理解しきれてないですが、おそらくサービスの表面的な部分では変わらないのだと思います。
この考えを知ったことで、「道徳」と「商売」はもしかして二律背反的なのかもしれないと思いつつ、少しでも自分が提供したいサービスの本質に近づけられるヒントにしていきたいです。
それでは皆様また来週。